えんじにゃーず・ハイ

主にエンジニアや技術情報についてつらつら書き連ねるブログです

SES業として10年間勤めた会社を辞めました

会社、辞めていました

知っている人にとっては「え、いまさら?」という話ですが、会社辞めました。実は5月に辞めていました。

私は約10年間、システムエンジニアとして客先常駐でお仕事をしていました。SES(システムエンジニアリングサービス)という業態のようです。

今更聞けない「SES(委託契約)、請負契約」の違いとは

現在36歳。もっと早くこのSES業界から抜けたかったという思いはありますが、SESで経験として培ってきたものもあります。

SESとしては2社経験しています。ちょっと振り返ってみましょう。

1社目。システムエンジニアとしてのスタート

26歳の時、職業訓練校を経てとあるアプリ開発会社へ入社しました。

私はその会社が出しているアプリのユーザーで、内定を頂いた時には自分もアプリ開発に携われるかと思うと期待に満ちあふれていました。

しかし、私に与えられた仕事は客先常駐でした。

人事に話が違うと申し出ると「まだ早い。経験が不足している」との答えでした。 確かに。納得できる理由です。「ではいつか経験を積んだその時にアプリ開発への転属を希望します」と伝えたところ、「そうだな...早くて3年かな」と告げられました。 この会社ではSES部隊が客先常駐でお金を稼ぎ、そのお金でアプリ開発部隊が開発する体制でした。

結局、6年在籍しましたがSESからアプリ開発への転属は叶いませんでした。そもそもアプリ開発部隊が丸ごと支社へ移動してしまっていました。

給与もよくありませんでした。入社直後の給料が低いのは納得できますが、数年経っても一年に数千円しか昇給しません。 それを理由に一度退職を申し出ると数万円の給与UPとなりました。会社に対する信用度が急降下した瞬間でした。

2社目。営業と共に会社を立ち上げる

とある営業と以前からともに会社を起こしたいと話していました。

SESでお金を稼ぐのは簡単です。しかし、SESのみではリスク分散ができません。更には利益として出せる上限が決まってしまいます。 ですから、SESでお金は稼ぎつつも、受託開発をして儲けた分を社員全員へ還元できるような会社にしたい。それが「すてきな会社」だと。そんな会社を作りたい。

そして、それが遂に実現します。

営業を社長、私を役職者として会社を立ち上げました。いや、立ち上げましたといっても私は経営者でも役員でもなく、システム開発部門のトップとしての役目でした。

ですから、私は社内のシステム周りを統括したり資料を作成したりなどがメインでした。 社名やロゴ、経営、人事などは社長が全て一人でこなしていました。基本的に、私には事後報告でした。

同じ会社で働くメンバーだから、いつかは受託として働くチームメンバーだから、技術に明るい人と仕事をしたいという気持ちが強くありました。

ですが実態はすでにSESとして顧客に信用されている(つまり長くその現場に在籍している)メンバーばかりでした。技術に明るいかどうかはわかりません。 社員全員が家族と思えるようなメンバーを集めたいと話していました。しかし、私にはそうとは思えないメンバーも入社してきました。全員がSES業です。受託開発の話はやはりまだ早いとの結論になりました。SESは確実に利益を出せますが、受託開発はそうもいきません。お金が発生しない仕事は仕事ではありませんでした。

結局、私の見据えていた「すてきな会社」には程遠い会社になりました。そもそも私の立ち位置もNo2とはいえ会社にとって必要な人間なのかわからなくなりました。

客先常駐で仕事をこなし、帰宅したら自社の資料作りや新人教育の担当をこなしていました。酷い時には毎日深夜3時ぐらいまで作業していました。 これに対して残業代は出ません。いつかこれが跳ね返ってくるだろう、その希望的観測しかありませんでした。社長からは「今は耐えてくれ。俺は見ている。いつか役員に」と言われていました。 「俺は幹部だから、きっと文句を言ってはいけないんだ」そう自分を納得させつつも、毎日モヤモヤした感情がうずまいていました。

自分に部下ができました。今まで部下は居ましたが、形式上だけのものでした。SESとして同じ現場で、私といっしょのチームメンバーです。約10年間、初めてのことでした。今まではほとんどピンで派遣されていました。

その部下には私の全てを伝授しようと思いました。部下も今まで一人で認められてきた技術者です。部下、上司の関係も今までありませんでした。 ですから、最初は強い反発もありました。しかし、次第に私が出してきた成果や考え方に対して認めてくれるようになりました。

そんな部下の給料は、私と1万しか変わりませんでした。他の社員に聞いたら私と同じ給料の社員もいました。

私は愕然としました。会社にとって、私の価値はそんなものなのだ。業務を終え、自社の仕事をこなし、新人教育もし、部下の育成をし、社内のシステム全てを任されていてもそんなものなのだ。

今まで押さえつけていた何かが爆発しました。ただ利用されていただけではないのか。一度不信感を覚えてしまったらもう戻ることはできません。

気づけば36歳になっていました。このまま40、50歳となった時、私は技術者として働けているだろうか。 技術者ならわかるはずです。技術者は「誰とどんな仕事をするのか」これに尽きると思っています。 社内は技術力が低く、客先常駐ですとどんなメンバーと仕事ができるかは運任せです。このままではいけないと考え、遂に決断しました。

無職、そして

遅かった。本当に遅かったと感じています。ですが、ようやく鎖が無くなったのだと。エンジニアとしての新しい一歩が踏み出せたことには遅いも早いもありません。

これから今までとは違うやり方で仕事をしていきたいと思っています。

SESは完全に運任せです。私も酷い目に遭ったことは往々にしてありました。それでも、素晴らしい技術者とお会いすることもありました。今までの経験は無駄ではありません。私を構成する「技術者」にとって必要なものだった、そう思いたい。今までの経験を糧に、新しい世界へ踏み出していきたいと思います。

長文になってしまいました。駄文にお付き合い頂いてありがとうございました。

今まで関わって頂いた方々、これからもよろしくお願いします。

これから関わって頂ける方々、これからよろしくお願いします。

干し芋リストをこっそり置いておきます。

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